感想とか

「まず僕に何かください」という呪い(……内田樹さんの本を読んで)。

ひとりでは生きられないのも芸のうち』という内田樹さんの本(文庫版)を読みました。
内容は内田さんが日々更新しているブログ記事を加筆修正したもの。
単行本の発売が 2008 年 1 月(文庫版は 2011 年 1 月)なので少々古い(文章が書かれたときから状況が変化している)と感じる部分もありますが、逆に「普遍的」と感じる部分も多くあります。
書いていることにいちいち「ふんふん」と頷きながら、着眼点の鋭さや語彙の豊富さに驚きつつ、「そういえば最近こういう(自分の考えを深めたり広めたりする)文章を読んでなかったなぁ」ということも思ったりしました。

「自立」することと「まず贈与する」ことの関係

「自立とは「その人なしでは生きてゆけない人」の数を増やすこと」とこの本では書いています。
それはつまり、まず自分から「あなたにはずっと健康で幸福でいてもらいたい」と祈ることであり、そうすることによって相手からも同じ祈りが返されることにつながる、と。

できることなら私の代わりに誰かがお金を稼いでくれて、ご飯も作ってくれるし、洗濯もアイロンかけも、ゴミ出しもトイレ掃除も全部してくれる状態が来ればいいなと思っている。だって、そうすれば、私はその誰かに代わってお金を稼いだり、ご飯を作ったり、洗濯をしたり、アイロンかけをしたり、ゴミ出しやトイレ掃除をすることができるからである。
自分がしなければいけないことを誰かがしてくれれば、そうやって浮いたリソースで他人のしなければいけないことを私が代わりにやってあげることができる。
それがレヴィナスの言う pour I'autre(他者のために/他者の身代わりとして)ということの原基的な形態だと思う。
それが「交換」であり、それが人性の自然なのだと私は思う。

(「あなたなしでは生きてゆけない」より…P.271)

それに対して、「自分には他人に与えるものは何もない。それよりまず僕に何かください」という人については、「自分自身に呪いをかけている」と書いています。
そして、そんな「他人に贈与しない人」は「誰からも贈与されることがない」ために、「自分が必要とするものをすべて自分で手に入れなければならない」と。

そういう人はそのあと仮に赤貧から脱することができたとしても、「私は十分に豊かになったので、これから贈与をすることにしよう」という転換点を見出すことができません。いつまでも「貧しい」ままです。そこそこの生活ができるようになっても、「世の中にはオレより豊かなやつがいっぱいいるじゃないか(ビル・ゲイツとか)。贈与なんて、そいつらがやればいいんだよ。オレには家のローンとかいろいろあるんだから……」そういうふうにしか言えなくなってしまう。それが「まず僕に何かください」と言ってしまった「自分に対する呪い」の効果なのです。

(「文庫本のためのあとがき」より…P.283)

「自分が欲しいものがあるなら、まず他人に与えなさい」とか、「自分から笑顔になれば、周りも笑顔になる」といったことはよく言われています。
それだけ言われても綺麗事のように聞こえる面もあったんですが、それをこうして具体的・論理的に説明されると「なるほど」と思ってしまいますね。

たぶん、今の僕は「呪い」を自分でかけている状態なんだろうと思います。
「まずは自分から与える(贈与する)」ことの大切さは分かっているつもりですし、自分なりには努力や実践をしてきましたが、どうもその限界を超えてしまったというか。
「これだけしたんだから、もっと返してくれよ」という感じなのかも知れません。
本当はリターンなんて気にしてたらダメなんでしょうけどね。
ただ、「けっこう頑張ってきたんだけどなぁ。もうちょっと何かしら返ってきても良いと思うんやけどなぁ」というのが正直なところなのです。たぶん。
(もし「何も返ってきてないのは、与え方が足りないんだよ」なんてことを言われたら、立ち直れそうにありません)

ここからまた「自分から与えていこう!」ってなるにはどうしたら良いんですかね。
身近な人に笑顔で挨拶、とかになるんでしょうか。ベタですけど。
うーん……。言うは易し、行うは難し……。

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