『けもの道』という本を読みました。
『水曜どうでしょう』のチーフディレクター担当でおなじみ、「藤やん」こと藤村忠寿さんの書き下ろしエッセイ。
嬉野さんも他の出演者も登場しない、やや珍しい純「藤村」な本でした。
仕事論や人生論については他の本でも出てきている内容がほとんどですが、幼少期から大学時代の話や、両親や祖父母に関する話など、かなりプライベートなことも出てきます。
ラグビー部での「自分の居場所」はフッカー
大学時代のラグビー部のエピソードで、藤やんは「ラクなんじゃねえか?」という理由でフッカーというポジションを見付け、獲得した。
で、いざトライできそうなときには、バックスの後ろから全力で走ってトライを決める。
でもトライできそうにないときには、プロップ(スクラムを組むとき両サイドに居る巨漢)よりもゆっくり歩いてたりする。
その心は「試合の目的は点をとることだろう」。
何とも面白いですね。
司令塔のスタンドオフではなくフッカーを選択したのも面白い。
まさに『水曜どうでしょう』に通じる姿勢というか姿勢というか。
目的は忘れない。ブレない。
でもそれを達成するための方法は何だって良い。
そしてあくまでその基準は「ラク」かどうか。
ただ、いろいろなワクや常識がその実現を阻むから、それらを退けるためにこそ時間や労力を使わないといけない。
そうしないと、面白いものは作れない。
あと、ラグビー部でのエピソードでは、キャプテンを総選挙で選ぶように制度を変えたことも紹介されていました。
この辺りのやり口も「藤やん流」で、なんとなーく自分たちが思った通りの方向へ物事が動くようにもっていきます。
物事って、なんとなーく、のほうがうまくいくから。「発言します!」って感じでいくと、言われるほうは絶対に構える。で、瞬間的に身を守ろうとして、「どうやってこの発言を撃退しようか」って考える。だから、大きなことをやるんだったら、なんとなーくやるのがいちばんの近道なんじゃないかって。「これは、おおごとだ!」って思われないようにする。なんとなーく始めて、それで、なんとなーく結果を出していけば、誰もいまさらなんにも言わない。いままでの監修や常識が破られたことに、拒否反応を起こすこともない。
(P.59)
「藤やん」の素地は小学生時代から
小学校から帰ってきて、鏡に向かって「今日はこのひとおもしろいこと言ってたなぁ」と冷静に自分を見つめていたというエピソードは、妙に納得感というか説得力があるというか。
大学時代にはキャプテン指名制度を改正したり、フッカーというポジションを見つけ普通とは違う動き方をしてみたり。
自分の立ち位置を確認しつつ周りの人間を巻き込んでいく術は、もうすでにこの頃から培われてたんでしょうなぁ。
僕は、正面から当たらずに、「違う道」を探す。自分のペースで歩けるような道。
でも、その「道」は、自分で見つけなきゃいけない。
そもそも「道」は、誰かに教えてもらうものじゃないからね。
だって、教えてもらった「道」を行ったら、そこにはもう、ひとが集まっているでしょう。そしたら、また、障害が生まれちゃう。
教えられた「道」を行くのは、確かにわかりやすい。自分でいろいろ考える必要もない。でも、そこを行くひとは覆いから、自分たちで「常識」という障害を作って、列を乱さないように、ぎゅうぎゅうになりながら、歩いている。
違う「道」を行くと、その時点でもう「常識」からはずれているから、誰も歩いていない。だから、この先がどうなっているのかはわからない。行ってみて初めて「ああ大丈夫だ。これならいいや」と、ひとつずつ自分で確かめながら行く。でもそれは、まぎれもなく「自分の道」になる。
(P.146)
僕はどんなに面白い人が居ても「会いたい」とはあんまり思わないのだけど、藤やんには会ってみたいなぁ。
会って、今の僕の状況を話して、どう思うか聞いてみたい。
たぶん「知らねぇよ! それくらい自分で考えろよ! バカ!」って言われるんでしょうけど。
(もしくは、訥々と説教されるか)
腹を割って話してみたいなぁ。