タイトルからは「正しいオヤジになるには……すればいい」ということが書かれていることを期待しますが、実際は「正しいオヤジって何でしょうね?」「最近オヤジって存在感ないなぁ」というスタンスです。
対談形式ということもあってか、フワフワ〜っと話が進んでいく感じ。
決して内容が薄いということはないんですけどね。
肩肘張らず気軽に読めるという意味です。
「オヤジ」というと特定の性別・年齢を指す言葉ですが、この本はそれより「(全年齢を通した)人間としての成熟」に重きが置かれている印象。
学校教育や政治などについてもかなり深く言及されています。
難しい言葉もまったく出てこないので、サクサク読み進めていけます。
文字も大きめだし。
速い人だと 2 時間くらいで読んでしまうんじゃないでしょうか。
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印象に残った箇所の引用
学校教育・大学運営について
子供が減っているときに大学同士で競争したら、そりゃ、スケールメリットのある大学が勝ち残るに決まっています。グローバル企業の競争と同じですよ。最後はコスト競争になる。全国一律同じ教育プログラムで、同じ教科書で、同じ校舎設計のコンビニみたいな大学チェーンができれば、間違いなく、そこが一番授業料の安い大学になる。市場原理に委ねて競争させたら、最後に勝ち残るのは「全国どこでも同じ教育サービスが受けられる」大手のチェーン校になるに決まっているんです。予備校は現にそうなったんですから。
でも、コンビニ大学は教育・研究どちらにも何のメリットもない。だって、教師に現場での自由裁量権がなくなるんですから。巨大な組織はどこでも同一マニュアルで授業しないと管理できませんから。でも、経営コストを優先的に配置したら、そういう大学しか生き残れないんですよ。(P.84)
だから、いい加減わかっていいと思うんですけど、ビジネスマンには大学なんか経営できるはずがないんです。教育というものの本質がわかっていないんだから。
大学って、まず入学金を受け取りますよね。品物を売る前に代金を満額貰ってしまう。そんなことふつうの商売ではありえない。納品して、かなり時間差があってから入金するのがふつうの商取引です。でも、学校は何もしないうちにまずお金が入ってくる。目の前に何億円かぽんと現金が入ってくる。そうするとビジネスマンはその本性からして、このお金を「いかに減らさないか」を考え始めてしまう。どうすれば収益が上がるか。簡単ですよ。単年度で考えるとそれは「できるだけお金を使わないこと」、つまり「教育事業をしないこと」なんです。専任教員を雇わず、安く雇える非常勤で間に合わせる。職員もバイトで回す。教室は貸しビルの安い部屋を借りて、そこに詰め込めるだけ詰め込む。教室を使わないときは又貸ししたりして(笑)。ビジネスマンは先に代価を貰った「教育商品」については、そのコストをどこまで下げるかを考えてしまう。それは彼らの本性だからどうしようもないんです。代価以上の価値のある商品を提供しようという発送はビジネスマンにはないんですから。
だから、株式会社大学は二、三年で誰も来なくなった。ビジネスマンが収益事業のつもりで大学なんかやってもダメなんです。現に全部失敗した。そこから学習してほしいですよね。(P.87)
学校教育は収益事業じゃないんです。子供たちが成熟した市民に成長するのをどう支援するか。それが学校教育の目的であって、本来は「持ち出し」なんです。子供たちの少なくとも一部が「まっとうな大人」に育ってくれないと共同体が維持できないから。だから、教育で金を儲けようという発想そのものが無理筋なんです。もともとすべての私立学校は建学者の「持ち出し」で始まったんですからね。(P.88)
大阪都構想、大阪府政・大阪市政についてもチクリ
そもそも天皇がいない、御所がないのに「都」と呼ぶのは、筋違いなんじゃないんですかね。(P.93)
今、大阪府や市の職員は、「物言えば唇寒し」だから、うつむいて黙って九時から五時まで勤務をして、終わったらさっさと帰るんじゃないですか。いずれこの市長もいなくなるだろうから、嵐が過ぎるのをじっと待っている。そんなことで組織としての機能が上がるはずがない。(P.96)
「大阪を元気に!」という発想そのものが良くないと僕は思います。「元気がある」というのは、要はお金がぐるぐる回っているということでしょう。ビルを建てたり壊したり、バブル紳士が札びらを切っていた頃の北新地の賑わいをもう一度と願っているんでしょうけれど、何を言っているんです。大阪の地盤沈下は東京一極集中の結果であって、別に大阪の地方自治に致命的な失政があったせいじゃない。
東京以外の地方都市はどこでもそうなんです。一極集中、「選択と集中」という戦略そのものが必ず周囲に没落をもたらすんです。だから、「大阪都に資源を集中せよ」ということになれば、近畿の周辺都市の没落がさらに進行するだけです。(P.96)
子供のいじめについても鋭い指摘
もともといじめというのは、集団の中で何か際立ったところがある子供を「スケープゴート」に仕立てるものでした。背が低いとか、太っているとか、運動能力が低いとか、勉強ができないとか、あるいは髪の毛とか肌の色とか言葉遣いとか、際立って他と違う点がある子供がいじめの標的にされた。
でも、今のいじめは違うんです。標的がどんどん入れ替わる。どんなきっかけからでもいじめの標的になりうる。でも、際立った特徴があっていじめられているわけじゃないから、その理不尽な暴力にしばらく耐えさえすれば、いずれ嵐が去って、別の子供が標的になり、それまでの被害者は加害者か傍観者のポジションに移ることができる。そういうふうにして、クラス全員の「手が汚れる」ところまでいじめが進行する。極限的には全員が「いじめ容認派」になる。そうなると、仮にある子供に対するいじめが常軌を逸して執拗であったり、悪質であったりしても、それを批判するロジックを誰一人、被害者自身も立てることができなくなる。
僕は自殺するところまで子供が追い詰められたのは、その子供自身がかつて一度「いじめを容認する立場」を取ってしまったことによって、自分に向けられたいじめを論理的にも倫理的にも押し戻す権利を失ってしまったという仕掛けのせいじゃないかと思っているんです。自分に理があると思ったら、人間は孤立無援でも、かなり長期にわたって抵抗することができます。でも、自分には正義を要求する権利がないのではないか……と思ってしまったら、もうふんばる足場がなくなる。今のいじめは子供たちを組織的にそういうところに追い詰める邪悪なメカニズムの結果のように僕には見えます。(P.113)
加害者を特定して、刑事罰を加えればいじめがなくなるという発想をする人は、いじめの加害者が「本性的に邪悪な人間」であるということを無言のうちに前提にしているわけですけれど、僕はそれは事態を適切にとらえていないと思います。とりわけ邪悪でもない、ただ規範意識が弱いだけの子供がいじめの加害者になって、節度のない暴力をふるう。そうさせるメカニズムが今日本の学校では活発に機能している。そのメカニズムを解明して、そこから子供たちを解き放つ方法を考えなければいけない。子供たちを捕まえて、刑事罰を加えても、いじめはなくならない。むしろ激化するんじゃないかと思います。(P.115)
処罰のロジックは加害者・傍観者の数を増やすことはあっても減らすことはありません。いじめの容疑で逮捕されたり、矯正施設に入れられたりする子供と、加害者であったにもかかわらず、関与が軽微であったからという理由で免罪された子供の差はいったい学校教育の中でどう補正できるのか。倫理的にはどちらも「クロ」なんです。でも、一方は刑事罰の対象になり、一方は教育的指導で終わる。処罰を逃れた子供は、その後ずっと「自分の手は汚れているが、処罰を逃れた」という疚しさを持ち続ける。自尊感情を損なわれた、倫理的に自己評価の低い子供がそうやって組織的に生み出されることになる。そういう子供は本当に弱いんです。倫理的に弱い。どんな理不尽な要求であっても、大声でどなりつけられると崩れるように屈服してしまう。プライドがないから。そういう弱さをかかえたまま大人になる。そんな子供たちが成熟した市民に育つということは絶望的に困難だと思います。
いじめは属人的な気質の問題ではなく、制度的な問題です。いじめを生み出す制度を放置して、その制度の産物にすぎない個人を摘発しても、事態はまったく変わらないと思います。(P.116)
その他、生き方や働き方などについて
アンチエイジングというのは、「若さ信仰」ですよね。年をとることは惨めだ、恥ずかしいことだという考え方です。でも、今は自分の周りにいる皺の寄った老人たちを見下して、「それに比べて俺は若い」と気張ることができても、いずれ「若作りの年寄り」も実年齢相応になる。少しの間は老いと距離を取れても、最終的に老いを出し抜くことができた人はいません。いつかは追いつかれる。(P.29)
「ロストジェネレーション」ていうのは、2007 年から朝日新聞が仕掛けたキャンペーンなんです。卒業年次の景況によって人間の一生は決まってしまうという変な運命論と、バブルの恩恵に浴していた世代は「良い思いをしている」という変な世代間格差論と、世の中は老人が資源を独占しているから再分配がうまくゆかないのだから老人たちを追い出してしまえという若さ礼賛・老人嫌いのイデオロギーでした。これがどれくらい世の中をぎすぎすしたものにしたか、きちんと検証する必要があると思いますよ。
ここまで日本社会が住みにくくなったのは、成員全員が「これでいい」と思ってやってきたことが間違っていたということだと思うんです。それなのに相変わらず、「誰がワルモノなのか」「誰を叩き出せば、世の中はよくなるのか」というスケープゴート論の枠内で論争している。こんなところで集団成員同士が「どっちが悪いのか」というようなことでお互い罵り合っても、どうにもなりませんよ。そんなこといくらしても状況は好転しません。(P.74)
ノマドワーカーとは言っても、どこかしら既存のビジネス・スタイルに寄生している印象がありますね。ノマドというのなら、自分たちだけの新しいネットワークを作り出して、既存の企業体とも市場ともまったく無縁な、自由気ままな生き方を見せてほしいけれど、そういう感じはしませんね。ノマド(遊牧民)というよりはパラサイト(寄生者)なんじゃないかな。(P.155)
60 歳の人に今さら生き方を変えろとは言えないですが、自己啓発の本なんて読んでいる暇があるのなら、むしろ宗教を勧めたいですね。一番懐が深いのは仏教ですね。身体技法から瞑想まで整っているから。新興宗教は半分ビジネスですからダメですよ。昔ながらの教団仏教で、在家で修業できるもの。ときどきお寺に行って、作務衣を着て庭を掃いたりするの(笑)。一日一回お経をあげて瞑想するだけで、おじさんたちもずいぶん脂っけが抜けると思います。(P.160)
決断するときの最終的な基準は「これは嫌」ということですよね。理屈では受け入れられるけれど、身体が受け付けないということって、あります。自分の身体が納得してくれないことは、やっぱりできません。ものごとを決定するのは、最後は身体性ですよね。どんなに正しいことだと周りから言われても、「オレ、それダメなんだ」ということってありますから。
今の日本は「あんちゃんの時代」だという話をしましたけれど、「あんちゃん」て、頭ばかりで身体性がないんですよ。感情的ではあるけれど、ことの良い悪いを断定的に語るでしょう。自分の判断に理屈をつけて、一般性があるかのように語るじゃないですか。若者はナントカでなければならない、とか。大人というものはナントカである、とか。そういう一般性を要求する命題って、身体を使って考えていると出てこないんですよ。身体が言うのは「オレは嫌だ」というところまでで、「世間の人すべてが同じものを嫌うべきだ」というふうにはならない。だから、攻撃的にもならない。
身体は一般論を語らない。わかるのは、自分があることをしたいとか、したくないと感じているのだけれど、その理由はまだわからないということだけですから。(P.170)