[mixi の日記からの転載です]
15年目にして初めて、いわゆる「式典」というのに行ってきた。
高校時代の友人に誘われ、13時に三ノ宮駅で待ち合わせ。
まずは東遊園地へ向かい、ぐるっと一周した後に記帳と献花。
その後、「神戸震災復興記念公園」という広場のようなものの開演式へ足を運ぶ。
着いた頃には既に会は始まっていて、神戸市議会の副議長か何かの偉いさんが挨拶をしていた。
足下は芝生。
枯れ草のような色が混じっているものの、感触はフカフカしている。
こんなところをいつの間に作っていたんだろう。
全然知らなかった。
高速道路がすぐ近く、というかほぼ頭上に走っているのだけど、これは位置的に大丈夫なのか。
非常時には避難場所として活用されるはずなのに、ここへ来るには必ず何本かの高速道路の下を通ってこなければならない。
一抹の不安。
司会らしき年配の男性が、この公園が出来上がるまでのいきさつを説明し始める。
ほとんど何を言っているのか分からなかったが、「『みなとのもり』です。すべてひらがなです」というのだけは聞こえた。
そうか、『みなとのもり』というのか、この広場は。
そんなことを考えていると、おもむろに小学生らしき団体が3段の階段状に組まれた足場へ登っていく。
これは歌うんやろうな。そうやろうな。
友人とつぶやく。
小学生のうち2人か3人かが足場の前に出てきて、マイクの前に立つ。
今から僕たちがお聞かせするのはこういうことですよ、こういう意味があるんですよ、というようなことを、小学生らしからぬ丁寧な言葉で説明してくれる。
10歳になるかならないかくらいの子供に「次の世代へ受け継ぐため」とか言われても、いまいちピンと来ない。
大人でも普段使わないような言葉の連続を、よく噛まずに言えるものだ。
その丁寧さがあまりにも不自然で、あぁ、放課後も学校に残って一生懸命練習したんだろうな、と思ってしまう。
何だろう、この「神戸が頑張っているということをアピールする役割を担わされている」感は。
足場の後ろで駆け回って遊んでいる子供たちの方がよっぽど自然じゃないか。
指揮者らしき男性が小学生たちの前に立つ。
指揮者らしき男性が腕を振ると、カラオケのピアノが鳴り、小学生たちは体を前後に揺らしながら歌い始めた。
どうにも見ていられなくなって、公園内を歩いてみる。
駐車場へと続く緩やかな坂の両端に幅の広い階段があって、そこに簡易テントのようなものが3つほど設置されていた。
「災害用仮設トイレ」というものらしい。
よく見ると、階段すべてにマンホールのような材質の長方形のフタが付いている。
なるほど、災害時にはここらへん一帯がトイレになるのか。
そういえば下水へ直接流す非常用のトイレができた、というニュースを見た記憶があるけど、それがこれらしい。
これ自体が崩れたらどうするんやろう、下水管が折れたらどうなるんやろう、と元も子もないことを考える。
悪い癖だ。
ふらふらと歩いているうち、小学生たちの歌が終わった。
いよいよクライマックス、「みんなでテープカット」。
公園の外周に張られた紅白のテープを、参加者全員でカットするらしい。
「はさみを忘れた方は、指で切るフリをしましょう。その後、近くの人にはさみを借りてください」
同じアナウンスが3回ほど断続的に繰り返された。
忘れたっていうか、僕はそんなこと聞いてもいない。
芝生の真ん中には、大きなはさみの模型を持った人が手持ち無沙汰で待っている。
そういえば、「復興記念」ってのは「復興したことを記念」しているんだろうか。
だとしたら、ちょっと違う気がする。
「復興した」と言い切ってしまっていいんだろうか。
カウントダウン。
大きなはさみの模型が頭上高く掲げられ、宙を切る。
テープがしゅるしゅると緩み、頼りなく足下に垂れ落ちた。
近くの人にはさみを借り、遅ればせながら僕もテープをカット。
これでようやく参加者の1人になれた気がする。
おめでとう、みなとのもり。
小学生のみんな、さっきは失礼なことを考えてしまってごめんよ。
一員になった途端、なぜか弱気になる。
これも悪い癖。
カットしたテープは参加者自身で持ち帰る。
もちろん今日という日の記念なのだが、アナウンスでは「ゴミになるので」とも言っていた。
それは言わなくてもいいだろう。
テープを残すための台紙があるらしいので、その配布場所へ向かう。
「参加証明書」と書かれたその紙の中央には2つの穴が空いていて、どうやらそこにテープを通すらしい。
掲示されている完成サンプルには、テープで作った輪っかの装飾がきれいに貼り付いていた。
ペンやホチキスなども用意されていたが、あまりの人の多さと、「持って帰るんやからウチでやれば良いやん」という元も子もないことをまたしても考え、そそくさと公園を後にする。
まだ14時半を過ぎたところ。
ひとまず近くのカフェに入り、遅めのランチを摂る。
ドリンクバーのコーヒーを4杯ほどおかわりする間、思い出と現状を半々で喋り続けた。
17時15分。
店を出て、再び東遊園地へ。
日は既に暮れ始めている。
竹の中で揺れるろうそくの火が、人影の黒によく映えていた。
ヘリコプターが2台、いや3台か。
何よりも大きな羽音を立てながら上空を旋回している。
数チームの取材陣も準備を整えていた。
三脚の上に高そうなビデオカメラを据え、僕らとは一定の距離を保ちながら待機している。
空が暗くなるにつれて、人も多くなってきた。
かなりの数が集まっているはずなのに、ざわつきのようなものはない。
ところどころでヒソヒソと話している声が聞こえるくらいだ。
ザザザッ、とグラウンドを歩く足音が低く響く。
「ただいま、17時30分です」「17時40分です」
アナウンスが時を告げるたび、場の緊張が高まっていく。
「ゴゴゴジ、ヨンジュウゴフン、サンジュウビョウヲオシラセシマス」
時報だ。
「ヨンジュウビョウ」「ゴジュウビョウ」
緊張がピークに達し、フッと言葉が消えていく。
「チョウドヲオシラセシマス」ピッ、ピッ、ピッ、ポーン
「黙祷」
アナウンスを合図に、その場に居た全ての人が俯き目を閉じる。
正確に言うと僕も目を閉じていたので見えていないのだが、皆はそのために集まっているのだからきっとそうに違いない。
ヘリコプターの羽音は相変わらずバタバタと響いている。
あ、そうか、この人たちは目を開けてたよな、と気付いたのは少し後のことだ。
「お直りください」
アナウンスで目を開ける。
1分か、それとも30秒だったか、想像していたよりも短い。
そこかしこで溜め息が漏れ、緊張が解けていく。
ハンカチで目を押さえている人や、手を合わせて祈り続けている人も居る。
次の行動を指示するアナウンスは無い。
周りの様子をうかがいながらバラバラと解散していく。
意外とあっさり終わるんやな。
若干拍子抜けしながら、僕も歩き始める。
グラウンドの端に設置されたテントのいくつかに、色んなパネルが掲示されていた。
記録写真だったり、何かのイベントレポートだったり。
「今まで出せなかったけど、今年公開された写真がある」ということを友人が言った。
出せなかった理由を正確には覚えていないけど、要するに「しんどすぎるから」ということだった。
友人の記憶もそれほど定かではなかったが、そういうものがあってもおかしくはないよな、と思う。
時の流れは出来事を風化していくが、その一方で何かを癒していく。
何というベタなフレーズ。
でも、あながち間違いではない。
テントの柱にぶら下げてあった会場案内図に、「15年のメッセージ」のような名前(正確な名前は忘れた)の何かが載っていた。
それを最後に見てメシでも行こか。そうしよか。
しばらく暗がりを歩いていると、出口のようなものが見えてきた。
あれ、通り過ぎたかな。
辺りを見渡す。
それらしきものはない。
時計があった。
説明書きには「昭和51年」。
違う。
大きな岩があった。
いや、何も書いてない。
違う。
それからしばらく探してみたものの、結局「メッセージ」を見つけることはできなかった。
諦めてフラワーロード沿いを北へ。
花時計。
「友達に見せたら、『ショボッ!』って言われたことがある」と友人が言った。
確かにショボい。
でも、ショボくて何が悪いのか。
こんなところに豪華なすごいものがあっても嫌やんか。
花だってシーズンごとに植え替えたりしてるし、じゅうぶんきれいにしてるやんか。
その場に居ない古き発言者に対して、気付けば2人で弁護していた。
我ながらよく分からない感情。
ときどきこうして「自分たちは神戸の人間だ」という自意識が顔を覗かせる。
「震災から15年」という表現は、一般的には正しい。
ただ、より正確に言うと「地震発生から15年」であり、「震災開始から15年」なのだ。
決して終わってはいない。