森達也監督が映画『FAKE』について詳しく答えているインタビュー記事があったので、特に印象的な部分を抜粋・引用。
「ドキュメンタリー」というものに対する真摯で謙虚な姿勢が強く感じられます。
»森達也vs佐村河内守! 巷で噂のドキュメンタリー『FAKE』、その制作秘話 | VICE JAPAN
»『FAKE』──それは付和雷同の国への楔:森達也、15年ぶりの新作を語る|WIRED.jp
映画『FAKE』を観た感想も書いてます。
佐村河内さんが森さんの撮影を受け入れた理由はなんだったと思いますか?
なんでしょう。映画の被写体になることをお願いしたとき、「僕はあなたの名誉を回復する気はさらさらない」と彼に言いました。「自分の映画のためにあなたを利用したい」とも。断られて当然です。頭がおかしいと思われたかもしれない。……不思議ですね。よくわからない。何かに感応してくれたのだろうと思うけれど。
森達也vs佐村河内守! 巷で噂のドキュメンタリー『FAKE』、その制作秘話 | VICE JAPAN
予期せぬことが起こるのはドキュメンタリーを面白くする要素の一つですね。
もちろん。現実に翻弄される度合いが大きければ大きいほど面白いドキュメンタリーになります。
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出かけたのを撮ったのは京都行きだけですか?
弁護士事務所に佐村河内さんが行く道中を撮ったけど、これは全部カットしました。とてもいいシーンがあったのだけど……。あとは病院。到着すると同時に、彼と奥さんが受付で何かを必死に頼んでいる。カメラをまわしながらそばに行ったら、「名前を呼ばないで番号で呼んでください」と頼んでいた。なるほどなあと思いました。名前を呼んだらみんな気づきますよね。
物悲しいですね。
本当は使いたかったシーンですが、最終的には落としちゃいました。やはりカットしたけど、お父さんも言っていました。「自分の名前が佐村河内でなければ……この名前のおかげで息子には迷惑をかけた」と。切ないです。
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感音性難聴という障害があるのをこの映画で初めて知りました。京都まで行って聴覚障害者のカウンセリングをやっている方を訪ねたのはどうしてですか?
彼は自らのブログで佐村河内騒動をとりあげて、難聴に対して無知なマスコミを批判していました。それを読んだ佐村河内さんから会いにゆくと決めたと連絡があったので、カメラクルーと共に同行しました。感音性難聴は、一般的には音がまったく聴こえないわけではないけれど、聴こえない音があったり、歪に聴こえたりするようです。音はわかっても声までは聴き取れない。佐村河内さんは「曲がって聴こえる」と言っています。耳鳴りがひどいとも。これはその日の体調によっても変わります。さらに、彼はある程度は口話を理解できますが、奥さんの口の動きは読めても、初対面の人の口の動きはほとんど読み取れない。考えたら当たり前ですよね。すべてグラデーションです。でもメディアは、聴こえるか聴こえないかの二つに単純化してしまう。かつては「全聾の天才作曲家」と称賛し、騒動後は「聴こえるのに聴こえないふりをしたペテン師」と全否定する。1かゼロです。でも現実はもっと複雑です。グレイゾーンがある。京都行きはそのニュアンスを補強できたかもしれない。
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森さんにとって、ドキュメンタリーでやってはならないことはなんですか?
ドキュメンタリーはジャンルではなくて手法です。だからルールは自分で決めればよいと思っています。僕は、隠し撮りはしない。撮っているときに「撮るな」と言われたらやめる。撮った直後に「使うな」と言われたシーンは使わない。倫理や礼節などが理由ではありません。ドキュメンタリーは加害性が強いからこそ、自分に対しての歯止めです。ただし、直後ではなくてもっとあとになってから「あのシーンを使うな」と言われた場合は拒否することもあります。
森達也vs佐村河内守! 巷で噂のドキュメンタリー『FAKE』、その制作秘話 | VICE JAPAN
撮影の終わりをどうやって決めましたか?
ラストのあのシーンを撮ったとき、これで終われるかなと思ったんです。でも映画的なカタルシスだけでよいのだろうかと考え直した。その帰結がエンドロールのあとのワンシーンです。物理で言うところの「対消滅」。粒子と反粒子を衝突させてゼロにする。それをやりたかった。
森達也vs佐村河内守! 巷で噂のドキュメンタリー『FAKE』、その制作秘話 | VICE JAPAN
(ってことは、あの最後の質問は初めから用意していたものではなかったんですかね。これは意外)
含みはたくさんあります。どんな表現にも嘘の要素が含まれていると僕は思っています。でもそれは、ヤラセや仕込みといった低レベルの嘘ではない。そんなつまらないことやりません。だって撮りながら面白くないもの。
ただ、ドキュメンタリーは「客観的でありのままの事実の集積」との解釈については、異議を唱えたいと思っています。カメラが撮れるのは、カメラの存在によって変質したメタ現実です。ありのままなど絶対に撮れない。さらに人は演技します。しかも撮った映像を、編集によって加工します。作為がなければ編集などワンカットもできません。客観とか中立などありえない。主観です。
森達也vs佐村河内守! 巷で噂のドキュメンタリー『FAKE』、その制作秘話 | VICE JAPAN
ドキュメンタリーの演出は、化学の実験に似ていると思っています。フラスコの中に入れた被写体を、加熱したり、揺さぶったり、触媒を入れたりして、その反応を撮影する。時にはカメラを持つ僕自身がフラスコの中に入り、挑発したり誘導したりする。被写体に逆襲されることもあります。その過程と相互作用が、僕が定義するドキュメンタリーです。
森達也vs佐村河内守! 巷で噂のドキュメンタリー『FAKE』、その制作秘話 | VICE JAPAN
観客に隠していることはないですか?
無限にあります。映像はモンタージュです。編集で繫いだカットとカットのあいだは削除されている。隠すことで現れるんです。フレーミングもそうですよね。フレームで区切ることで映すものと映さないものを選別している。それも隠していると言えるでしょう。
森達也vs佐村河内守! 巷で噂のドキュメンタリー『FAKE』、その制作秘話 | VICE JAPAN
『FAKE』は、フェイクドキュメンタリーにカテゴライズされる作品とは違います。タイトルで誤解されるのかな。このあいだ指摘されて気がついたのだけど、これまでのぼくの映画のタイトルは、『A』『A2』『311』と、アルファベットと数字しかタイトルに使っていないんです。意味性を排除したいのだろうなと、自分で分析しました。本当は『タイトルなし』にしたいけれど、さすがに無題だと興行できないので、毎回仕方なくつけています。意味なんかありません
『FAKE』──それは付和雷同の国への楔:森達也、15年ぶりの新作を語る|WIRED.jp
映画を撮ること自体は、さほどお金はかからない、特にいまはデジタルですから。フィルム時代に比べれば、圧倒的に低予算で映画はつくれます。でもドキュメンタリー映画の場合は、大ヒットしたって観客は1〜2万人です。その入場料総額の半分が劇場にいき、配給や宣伝費用、製作スタッフにギャランティを払ったら、計算してくれればわかるけれど、ほぼなにも残らない。生活なんてできないですよ。ドキュメンタリーはそもそものパイが小さいので、たまに『若いつくり手にメッセージを』なんて求められるけれど、『一日も早くドキュメンタリー制作などやめてください。迷惑です』と言うようにしています。というわけでこの15年間は、基本、活字を書いていました。
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まあほかに付け加えるならば、『A』と『A2』の2本を撮ってHP(ヒットポイント/ヘルスポイント)がゼロになってしまい、ゲージがフルになるまで思いのほか時間がかかってしまった、ということが挙げられます。こちらのほうが本当かも。ドキュメンタリーは加害性が強いので、撮った自分にだって毒が回ります
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佐村河内さんと最初に会って映画にしたいといったとき、ぼくは『奧さんも一緒に』っていったんです。でも香さん自身は嫌がった。だから冒頭のシーンでは、ぼくと佐村河内さんが向かい合い、カメラを脇に置いて香さんが写らないようにしています。でもいずれ、香さんにも入っていただくことになるだろうとは最初から想定していました。ぼく自身はこの映画を、彼ら2人の純愛を描いた映画だと思っていますから
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佐村河内と新垣隆の間には、仕事上のパートナーシップ以上の親密さがあったという噂も…。
「もしかしてBLってことですか? そういう噂を耳にしたことはあるけれど、陰謀史観以下のレヴェルだと思います。現実は常にグラデーションだけど、1年以上にわたって佐村河内さんを撮り続けた感覚としては、それはありえないです。ここでのぼくのコメントとしては、『バカじゃないの(笑)』とでも書いておいてください」
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ドキュメンタリーの定義を辞書的にいえば、演出や脚色のないありのままで客観的な映像、みたいなことになる。ならばそれは監視カメラの映像であって、ドキュメンタリーではありません。ドキュメンタリーは表現です。作為であり主観です。客観的などありえない。
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フラスコの中に被写体を入れて、下から熱したり冷やしたり、触媒を入れたり揺すってみたりといろいろな刺激を加えてみて、それによって被写体がどのように反応するかを撮るわけです。場合によってはぼくもカメラを持ってフラスコの中に入り、挑発するつもりが逆に挑発されたりする…。その相互作用を撮るのがドキュメンタリーだとぼくは思っています。そういった働きかけ、つまり干渉や加担や挑発や誘導こそが、ドキュメンタリーの演出です。ありのままの現実を客観的に撮るなどありえない。そもそも不可能です。
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多くのテレビドキュメンタリーは、中立や客観などの幻想に縛られてその領域をカットしてしまうけれど、それでは相互作用が描けない。それこそ本当のフェイクだと思います
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いろいろあっていいと思うのですが、ぼくがつくるドキュメンタリーとは違う、ということです。テーマや撮りかたでドキュメンタリーを定義すべきではない。要するに映像表現です。それ以上でも以下でもない
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『リテラシーを身につけて真偽を見分けましょう』的な理解では意味がない。『真偽は簡単に決められないし、そもそも真実はひとつではない』と気づかなければいけない。
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見分けることは不可能であり、真偽の境界はラインではなくて領域であると思ったほうがいい。正義の反対は別の正義。クレヨンしんちゃんのこの言葉の意味と重なります
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自分の体験で言えば、撮影時に自分が予期しない局面がたくさんある作品ほど、結果として面白いドキュメンタリーになりますね。現実に翻弄されるんです。渦中ではこれほどつらいことはないけれど、こうした要素が多ければ多いほど、豊かな作品になるとの実感をもっています。例えば『A』ならば不当逮捕のシーン、『A2』ならば右翼との交流シーンとか。そういう意味で今回は、ラストがまさしくそうですね。ぼくの作為が裏切られて、現実に圧倒されています。こうしたときに、つくづく『世界は豊かなのだ』と思います。
『FAKE』──それは付和雷同の国への楔:森達也、15年ぶりの新作を語る|WIRED.jp
ぼくらメディアの仕事は、チョコレートをつくったり野菜や果物を売る仕事とは違い、誰かを傷つけたり追い詰めたりする要素がとても強い。メディアの影響力はそれほどに大きい。ルワンダの虐殺やロシアとウクライナの紛争も、メディアが大きな役割を果たしています。それを忘れてはいけない。ときには思い出すべきです。報道も含めて『人の不幸をメシの種にしているんだ』ということを、もっと胸に刻むべきだと思います。つまり負い目。うしろめたさ。決して胸を張れる仕事じゃない。後ろめたさをもたなければ、人を傷つけるばかりです。でも重要な仕事です。加害性が強いからこそ、ときには多くの人を救うことができる。世論を動かすことができる。
『FAKE』──それは付和雷同の国への楔:森達也、15年ぶりの新作を語る|WIRED.jp
いまはまたHPがゼロになっているので、次回作についてはあまり考えられないです。ただ、ドラマをやりたいとは思っています。世間はぼくのことをドキュメンタリー専門だと思っていますが、そもそもフィクションは大好きですし、次はフィクションを撮りたいと思っています
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ハリウッドは昔から、アメリカンニューシネマも含めて社会問題に斬り込んでいましたよね。それでエンターテインメントに仕立て上げる。『大統領の陰謀』や『華氏911』だけではなく、大ヒットした『アバター』は、明らかにイラク戦争や先住民族を殺戮してきたアメリカの負の歴史へのメタファーです。
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