考えてること・考えたこと

「ハレ」から「ケガレ」へ。(「ケ」はどこに?)

いま読み進めている『現代霊性論』という本の中で、「ハレ・ケ・ケガレ」ということが出てきた。

「ハレ」とは「聖の非日常」のこと、エネルギーが活性化した「晴れ」や「張れ」の状態。
逆に「負の非日常」は「ケガレ」で、「気枯れ」や「毛枯れ」「毛離れ」の状態とのこと。
そして「日常」(ニュートラルな状態)が「ケ」。

その「ハレ」が都市生活では常態化しやすいという。

昨日よりも今日、今日よりも明日。
常に新しい刺激が提供され続けているので、どんどん「刺激の閾値」が上がっていく。
還るべき日常(「ケ」)がどこにあるのかわからない。
選択肢が多すぎてあまりに自由なために、占いや風水に「縛り」を求める……。

非日常であるはずの「ハレ」が常態化するというのは、言ってみれば「毎日がお祭り騒ぎ」のようなもの。
実際「カーニヴァル化」という言い方もあるらしい。

どう考えても異常であることは間違いないけれど、現状を的確に言い当てているように思う。
少し前までの僕がそうだった(と今になって感じる)から、余計にそんな気がするのかも知れない。
肥大し続ける「あるべき自分」を目指して、外側からの刺激や情報を飲み込むことだけ考えていた。
内側から発せられる声に耳を貸すことはできなかった。

そして今はどうかというと、たぶん「ケガレ」の状態だろう。
「ケガレ」という言葉は知っていたけど、ずっと「汚れ」だと思っていたから、「気枯れ」という言葉(というより文字)を見た瞬間にハッとした。
「気が枯れている」とは、まさに今の自分を言い当てられているような。

「ハレ」から「ケガレ」へ。
常態化していた非日常から、もう一方の非日常へ。

日常はどこにあるのか。
日常とは何なのか。
日常を生きるとはどういう意味なのか。

そんなことを問い続けていると、それすら肥大した自分であるような気がしてくる。
厄介だ。まったく厄介だ。

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